ピュア子とは?〜好きな小説

短編小説「天使の仕事」

彼女の名前は、「みるる」といいました。

みるるはその名をとても気に入っていて、よく自分で自分のことを「わたし」とは言わずに「みるる」と言いました。短縮して「みる」と言うこともありました。何より、甘ったるく転がるようなその響きと、口の中で舌が上顎を打つ感覚が好きでした。友達もみんな可愛いと言ってくれます。その時の、友達の瞳から投げかけられる本当に心の底からうらやましそうな潤んだ視線が、みるるにはぬるいシャワーのように心地よいのです。

肩から腰周辺を覆う純白のローブ、背中の翼、健康的でまるまるとした赤ん坊のような身体。鏡に映った自分を見ながら、毎日毎日みるるは思います。《少しは天使らしくなったかしら》でもその頭の上には、まだぼんやりと優しい光を放つ輪っかは浮かんでいません。みるるは天使養成校に通う天使候補生なのでした。

「みる、行ってくるねぇ」

みるるは少し慌てていたので、今日は短縮してそう言うと急いで家を出ました。閉めたつもりの玄関のドアがきちんと閉まってなくて、ひとりでにゆっくり開くのが見えました。でもみるるは、ぺろッと舌を出して見ないフリをしました。ドアを閉め直すような時間は、ありません。どうせお母さんがちゃんと閉めてくれるでしょう。

今日は大切な試験があるのです。にもかかわらず、朝食を採るのに時間がかかって少し遅れぎみだったのでした。みるるはお尻に火がついたように走りました。

みるるはゆうべ、試験のことを考えると興奮してなかなか眠れないだろうと思って、ちゃんといつもより二時間も早く床につきました。案の定、眠れませんでした。結局寝たのは二時間後。つまりいつもの時間でしたが、みるるは早く寝てよかったな、と思いました。

ところが目覚ましの音で飛び起きて、朝食を準備してからふと時計を見てみると、まだ起きる予定の時間の一時間前であることに気がつきました。念のためいつもより一時間だけ早起きしようとしてセットした目覚まし時計の時間が、間違っていたのです。仕方なくみるるは目覚ましをセットし直してもう一度寝ました。いつもより二時間も早く起きてしまったら、試験中に眠くなるかもしれないと思ったのです。そして再び目覚まし時計の音で起こされた時、みるるは思わず「あれ?」と声をあげました。今度はいつもの時間だったのです。セットし直す時、ついつい習慣でいつもの時間に合わせてしまったのです。 

みるるは、まあいいやと思いました。いつもの時間ということは、いつもどおりやれば十分に間に合うということなのですから。ところが二時間前に準備したシリアルはたっぷり牛乳を吸って、ぶよぶよの得体の知れない塊になっていました。

「ちゃんと責任持って食べるのよ」お母さんに言われて、みるるは気持ち悪いのを我慢して食べました。気がついたら、食べるのにいつもの二倍の時間がかかっていました。

みるるは走りながら腕時計を見ました。少し遅れてはいましたが、走れば十分間に合う時間です。少し心に余裕ができると、学校のことが頭に思い浮かびました。修行は厳しいけれど、みるるは学校が大好きです。友達とたくさんおしゃべりをしたり、男の子の勉強道具にいたずらをしたり、校庭を飛び回ったり・・・。みるるは「おっちょこちょいな所がある」と言われることがありましたが、それを気にしたことはありません。間違いは誰にでもあるし、自分にはそれを遥かに上回るたくさんの良いところがあると思っていました。現に仲良しグループの中でもリーダー的存在で、みるるの言うことにはみんなが賛成したし、相談事にもよく乗ってあげていました。もしかすると細かいことを気にしなくてどっしり構えているところが、お姉さんっぽく見られるのかもしれないと、みるるは思っていました。けれどもそんな彼女には珍しく、実は最近少しだけ憂鬱だったのです。

 みるるは昨日先生から教えてもらった場所に向かって一生懸命に走りながら、ちょっとだけ自分の表情が曇るのを感じました。それは、グループの中でみるると特に仲の良かった「パメラ」が、天使昇格試験を受けに行ってしまったからでした。

天使昇格試験。学校に通う全ての生徒にとって最大の謎。どうすればそれを受ける資格を手に入れられるのか、そしてそれがどんな試験なのか、全然わからなかいのです。ある日突然指名されて、二度と戻って来ない・・・。合格だったのか不合格だったのかもわからずじまい。「天使になれたらまた会えますからね」必死な顔で質問する生徒に対する先生の答えは、いつも同じセリフでした。

だから当然、パメラも帰ってきません。合格していれば、彼女は「パメラエル」になっているはず。みるるはそんなことを考えました。

もちろん生徒たちも、ただ黙っているわけではありません。事あるごとに声をひそめて、色々な噂を立てました。先生が何食わぬ顔をしてつけている通信簿の点数があるところまで高くなったら受けられるとか、霊力の測定器が隠されていて、修行で決められたレベルに届いたら受けられるとか・・・。でも、一番支持されているのは、「良い子になったら」という説でした。なんだかよくわからない説だったけれど、どうしてかそれが一番説得力があったのです。日頃のテストの点数とか霊力のレベルとかじゃなくて、もっと大切な何か。みるる達はまだ子供なのでうまい言葉が見つからないけど、きっとそういうものがあるという気がしていました。もちろんみるる自身も、その説を信じていました。

パメラがグループの中で一番早く試験を受けることになった時、みるるはなんだか複雑な気持ちになって、うまくそれを表現できずにのどがつかえたように感じました。

パメラにおめでとうを言いたい気持ち。

会えなくなってしまう寂しさ。

他にもいろんな感情があったようですが、そこは既にいろんな色を溶かした絵の具の渦のようにぐるぐる廻っていて、みるるにはよくわかりませんでした。

そして、今度は自分です。

天使になれるのは嬉しいけれど、友達と別れるのが辛い。でも、パメラと再会できるのは嬉しい。試験はどんなだろう。不合格になった者も戻らないのはどういうわけだろう・・・。

いろんな考えが熱せられて泡になり、沸騰してきたので、みるるは考えるのをやめました。考えるのをやめるのは得意なのです。その顔にはもう無邪気な笑顔が浮かんでいました。みるるは真っ赤な小さいかばんの中に手を入れて、今日の試験に使うことを許された三つの魔法球の感触を確かめました。魔法球は、たくさんの魔法を覚えなくても球を割るだけで封じ込められた魔法が使える、とても便利な道具です。みるるは透き通ったガラス球の中で青い炎が揺れている、その不思議な輝きを気に入っていました。指先に触れる球体のひんやりとした硬さは、頭の中まで醒ましてゆくようでした。

今日の試験会場である人間界の“ある地点”に転移するには、天界と人間界をつなぐ唯一の門  と言ってもそれは一つの魔法陣でしたが  を通らなければなりません。家からほど近い場所にあるその門が今日の集合場所でした。門の見えるところまでみるるがたどり着くと、やっぱり門の側にはもう担任の先生「カスティエル」が立っていました。

先生は近づくみるるに気づくと、学校の誰よりも背が高い、けれどモデルみたいにスリムでかっこいい身体を前屈みに深く二つに折り曲げて、その視線の位置を下げました。それでももちろん、みるるの顔よりは遙かに高い位置です。両方の頬を柔らかく流れる長髪の間からのぞくハンサムな顔に微笑みを浮かべる先生に、みるるは笑顔で手を振りました。

みるるからすると、先生は動物園で見る象やきりんなどと変わらないほど大きいような印象がありました。それなのに不思議と、この先生は少しも威圧的な感じがしませんでした。いつも生徒を見る時に浮かべるとても柔らかい笑顔と、物静かで優しい物腰のせいだとみるるは思いました。生徒にとても人気があって、みるるも大好きでした。

「おはよう、みるるくん」

「先生、おはよう、ございますぅ」

みるるは急ブレーキをかけるように両足を前に出して止まり、両手を広げてバランスを取ると、息を切らしながら言いました。どうやら遅刻はしなくてすんだようです。

「今日は大切な試験だから、頑張るんだよ」

先生はさっそく魔法陣の横にあるスイッチを操作しながら、お腹に響くような低い声で言いました。人間界に転移する時間と位置を調整しているのです。

「はい、頑張りますぅ!でも、あのぅ・・・」

みるるは急に勢いを失って上目使いに先生を見ました。

「試験って何をすればいいんですかぁ?」

先生は装置を操作する姿勢を崩さないまま、ゆっくりと言いました。

「必要な指示はテレパシーで出すから、それをよく聞いて行動すれば大丈夫だよ。でも、どう行動するかは君次第だし、それが試験なんだ」

言う間に装置のセットが完了したらしく、先生は改めてみるるの方に向き直りました。

「三つの魔法球は持ってきたかな?」

みるるは大きく、力いっぱいうなずきました。先生は満足気に目を閉じ、みるるを魔法陣の描かれた円形のプレートの上に促します。

「では、準備はいいね?・・・・・・そうだ。最後に一つ言っておかなければならないことが」

みるるは魔法陣の中心に立ち、振り返って先生を見上げました。

「試験に不合格となった者は・・・」

先生が普段通りの声でにこやかに最後の台詞を告げるのと装置の作動ボタンが押されるのは、ほぼ同時でした。

「二度と天界には戻れない。地獄に堕ちるんだ」

みるるが言葉の意味を理解して思わず大きく両目を見開いた時には、もうそこは人間界でした。

 

みるるが転移した場所は地球というきれいな星の、人間がたくさん動いている所でした。みるるは何度かこの星に来たことがあるのを思い出しました。うんと離れて見るとそれは蒼く輝くビー玉みたいでしたし、降りてみるとそこには、大きな青い海や広くて黒い地面やたくさんの緑の木々がありました。でも今日降りたのは、コンクリートのビルが空を覆うように建ち並び、うるさい音をたてて車がひっきりなしに行き交い、堅いアスファルトの上を覆い隠すようにたくさんの人間が歩いている場所です。空気はなんだか変な臭いがして、そこはきれいな星という印象が持てない場所でした。

人々は無表情で早足に歩いていました。それはそれぞれがいろんな考えとか感情を持っている生命とは思えません。まるで機械の部品か何かででもあるように無機的に感じられて、みるるは独りぼっちになったような寂しさを感じました。みるるの姿は彼らには見えないので、当然彼女に対する反応もありません。

そんなことをぼんやりと感じながら、みるるは先ほど先生が言ったことの意味を考えていました。

《試験に不合格なら地獄に堕ちる》

それは多分、「堕天する」ということです。話には聞いていますが、天使は禁忌を破った時、堕天して悪魔になるらしいのです。悪魔は天使の正反対。地獄に住んでいて、憎むべき敵。みるるには天使の禁忌が何なのかわかりません。それよりも、どうしてそれぞれが最初から別々の性質に生まれついたものではなくて、天使や天使候補生が突然転じて悪魔になってしまうのか、不思議でなりませんでした。

ましてや自分がそんな得体の知れないものに変わってしまうなんて、みるるには完全に想像の外の出来事です。だからみるるはそのことについてあまり実感が湧きませんでした。ただなんとなく、そんな暗くてじめじめして臭くて怖い所に住むのは嫌だな、と彼女なりに真剣に心配しました。そうは言ってもそこがどんな所なのか、みるるは直接には知らなかったのですが。

〈君の足元に黒い帽子を被った男性がいるのがわかるかな?〉

とりとめもないことを考えていたみるるの頭の中に話しかけてきたのは、カスティエル先生です。

みるるは人々が波のように進んでいく歩道の上5m程のところにふわふわと浮いていましたが、その人物はすぐに目につきました。黒い山高帽と同じ色のコートがよく似合っています。歩き方が優雅であると同時に颯爽としていて、紳士的な雰囲気が感じられました。

〈わかりますぅ〉

 みるるは授業で発言をする時のように、元気に片手を上げて返事しました。

〈試験の手順は単純だよ。その男性が、これから運命の分かれ道に差し掛かる。君はそれを、正しい方向に導いてやればいいんだ。それが天使の仕事の基本だからね〉

先生の優しい声を聞きながら、みるるは確かに単純だなと思いました。二つのうちどちらかを選ばせればいい、というだけのことなのですから。でも同時に、とても難しいと思いました。そもそも運命の分かれ道って何なのでしょう?正しい方向って何のことを言ってるのでしょう?

そうしたことの情報収集と判断を全て自分一人でやるのはとても無理だと感じ、みるるは途方に暮れました。あれほどみんなの話題になっていた試験の実態を知ることができたのに、喜んでいる暇なんか全然ありません。

〈ヒントは与えるから大丈夫だよ〉

多分みるるの思考を読んでいるのでしょう、先生が言いました。

〈100m程進んだら、その道は二手に分かれる。そのどちらに進むかで、彼のその後の人生は大きく変わるんだ。運命の出来事は分かれ道に入って間もなく起きる。「正しい方向」の意味については、自分で考えなさい〉

みるるは少しほっとしました。それなら話はわかります。「正しい方向」の判断は難しいとは思いますが、二つの人生を比べることができれば、検討がつくのではないかと思うのです。

「う〜ん。どうすればいいかなぁ」

みるるは、持ってきた三つの魔法球について思いを巡らせました。情報収集もその男性への導きも、その三つを上手く使ってやるしかないのです。これを持ってくることを許されているのは、そのために違いないのですから。これについては友達の間でかなりの議論が交わされていて、何を持っていくのが良いか色々な説がありました。試験を受けた者は帰ってきませんが、魔法球を用意することは事前に指示されるので、みんなに噂が広まっているのです。

みるるはクラスのガキ大将、ドーラの自信にあふれた顔を思い出しました。彼の持論によれば、

「試験なんて言って、悪い奴と戦うのに決まってるじゃんか。俺は、炎と雷とかまいたちの三つを持って行くね」とのことでした。これなどは試験の内容を大胆に予想してそれに適したものを用意するやり方です。正直言ってみるるはこれには賛成できませんでした。だって、外れてしまったら本当にどうにもならないでしょうから。戦いじゃなかった時のドーラの途方に暮れる顔が思い浮かんで、みるるはつい噴き出してしまうのです。みるるは自分たちのグループみんなで話し合って考えた、どんな事態にも対処できそうなセットを選びました。それは、

@人物や物の未来を観ることができる魔法

A少しだけ過去に戻れる魔法 

B相手に簡単な命令を実行させる魔法 

の三つです。

多くの友達が、試験はきっと人間をどうにかすることで自分の実力を試すものだろうと予想しました。であれば、あらかじめ先を見て判断したり、失敗してもやり直せたり、人間に言うことをきかせたりすることは、とても役に立つに違いありません。みるるもその考えに賛成でしたし、この中で命令の魔法を提案したのはみるるでした。

そんなわけでみるるはこの三つの魔法球を持って来ました。でもこの試験の場合、二つの道両方の未来を観て比べなければ、どちらがいいか判断できません。それには、未来を観る魔法と過去に戻る魔法を上手く使うしかなさそうだとみるるは思いました。

うんうん、と頷きながらみるるがふと見ると、男性はどんどんその分かれ道に近づいていきます。ゆっくり物思いに耽っている場合ではありません。早く方法を考えなけばなりませんでした。

「そうだ、そうだ。こうすればいいかもぉ」

案外に早くみるるはいいことを思いつきました。もともと彼女は何かに集中した時の頭の回転の速さには、少しばかり自信を持っていたのです。あと、どんな事態に直面しても肝が据わっているところも。何しろ遅刻しそうで走っている時ですら、ぼんやりと学校のことを考えているぐらいですから。そうでなければグループのリーダーは務まらないと、みるるは大した根拠もなしに確信していました。

みるるは未来を観る魔法球をかばんから取り出しました。貼り付けたシールで区別できるようになっているのです。そして、その青い炎にちらりと目をやってから、ためらいなく男性に投げつけました。球が砕けて煙になった瞬間、たちまちみるるの頭の中に未来の情景が浮かびます。それはこのままみるるが何もしなかった場合の、男性の行動でした   。

 


 

(男性の未来の行動)

ジェームズはお気に入りの山高帽のひさしに手をやって、その硬質な感触を楽しんだ。カシミヤのコートも、スーツもカッターシャツも、どれもパリッとしていた。どちらかというと、乱れのないきりっとした装いが好きであった。気持ちが引き締まるのである。

ジェームズは前方に分かれ道が近づいてくることに気づいていた。この辺りの地理にはあまり詳しくないが、行く方向は既に決まっていた。

(人通りが多い日だ)ジェームズは胸の内でそう呟き、目を細めて先を見た。

太陽が西側、すなわち左手から四十五度の角度で眩しい日差しを注いでいる。それは丁度左の道の進路がのびる方向と同じであった。左右の道の真ん中に立ち並ぶビル群の影になって、右の道が暗くなっているのに比べ、左の道は明るかった。まるで太陽に続く道だと、ジェームズは思った。

ジェームズはほとんど一瞬の停滞もなく左の道に進んだ。休日でとても人通りが多かったが、人より抜きん出て背の高いジェームズは、人を縫って歩くのが得意なのだ。ちょっとしたスペースとか、目的地に向かった流れとかがよく見えるのである。そしてこの人々の海を遊泳することが、ジェームズは嫌いではなかった。

しばらく進んだところで、ジェームズは横のビルの壁にあった食べ物の看板に気を取られて目をやった。一階部分と二階部分の中間のスペースに大きく、ファーストフードの新商品の写真が表示されていた。パンの間からのぞくジューシーな肉の色と、フレッシュな野菜の色の対比が食欲をそそる。

しかし、ついハンバーガーに見とれすぎたのが悪かった。ジェームズは自分の胸にむかって真っ直ぐ前から近づいてくる気配を感じ取り、反射的に立ち止まった。(しまった)と思った時には遅かった。それは若い女性で、彼女はまともにジェームズにぶつかってしまったのである。

「あッ」女性は何とかバランスを取って転ばずに済んだが、手にしていた紙袋を落としてしまった。袋の中に入っていた柑橘系の果物がたくさん道路の上に散らばるのを見て、ジェームズは「ああ」と思わず絶望的な声をあげた。周囲を歩く人々が一斉に避けていく。それは思いがけない速さで、どこにこんなスペースが残っていたのか不思議に思うほどの、開けた円形の一角を作り出した。

そこはまるで、大都会の真ん中に二人のために用意された異空間のようにジェームズには見えた。

そこで初めて女性の顔を見たジェームズは、その可憐さに驚いた。彼女は紺のブレザーとパープルのシャツの颯爽とした着こなしやテキパキとした物腰から、相応の年齢であると思われた。しかしその顔はまるで少女のようにあどけなく、肩にかかるプラチナブロンドはシルクのように滑らかに光っていた。

ジェームズが彼女をまともに見たのはほんの一瞬であった。

「これは、大変な失礼を致しました。お許しを・・・」恐縮して謝罪しながら、ジェームズは俯いて素早く果物を拾い集めた。俯いたのは果物を見るためだけではない。彼は頬が上気して熱くなるのを感じていたのだ。赤らんでいるだろう顔を見られるのは恥ずかしかった。

「いえ、こちらこそぼうっとして、すみませんでした」

 丁寧に頭を下げる彼女の声は、鈴の音のようにジェームズの頭にいつまでも反響した。

ジェームズは自分でも驚くような手際で全ての果物を拾っていった。しかし少しほっとして彼女に向かって近づこうとした時、両手にいっぱい抱えた果物のいくつかが転がり落ちてしまった。それを無理な体勢で受け止めようとしたジェームズは、あろうことか両手の果物を再び全部道路に落としてしまったのである。空中で曲芸師のように手を激しく動かして果物をキャッチしちょうとしたが、全ては空しく宙を切った。恥ずかしさを通り過ぎ、ジェームズは冷や汗をかいた。

ジェームズは今度こそすっかり恐れ入り、直立不動の姿勢で何度も謝った。だがそんなジェームズを見て、彼女は突然噴き出した。そして、いかにも楽しそうに笑いだしたのである。ジェームズも少し心がほぐれ、一緒に笑った。そうすると急にジェームズは落ち着きを取り戻し、本来の自分に戻れたような気がした。

「私はジェームズといいます」

「カレンです」

ジェームズはカレンから紙袋を受け取ると、再び地面に這いつくばるようにして、懸命に果物を拾ってその中に入れていった。しかし、排水溝の横に近づいた時、思わず身体の動きを止めた。一個だけ、排水溝に落ちてしまっていたのだ。

「すみません・・・」

 しかし、恐縮してその一個を指差し消え入るような声で言うジェームズに、カレンは輝かんばかりの笑顔を返した。

「こちらこそ拾っていただいて、すみません」

「あの、もしよかったら」

 ジェームズは一個を除いて全て拾い終わった紙袋をカレンに渡しながら、言った。心臓が高鳴るのを感じていた。

「お詫びにお食事でもいかがですか」

 カレンは少し驚いた様子で、

「いえ、そんな。こちらがご迷惑をおかけしたのに」と言った。その顔に嫌悪や拒絶の色が浮かんでいないことに、ジェームズはほっとした。すると、少し大胆になれた。

「それなら、感謝のしるしに。私はあなたとこうしてお話できたこと、とても嬉しく思っているんです」

 ストレートな表現に、カレンは再び笑みを浮かべた。

「ぜひとも」ジェームズは畳みかけて言った。

「ぜひご一緒したいのですが・・・」カレンは残念そうに言って空を仰いだ。「今日はこれから用事があるんです」

 ジェームズはそれなら、と言いかけたが、意外にも言葉を継いだのはカレンの方が早かった。

「でも、また後日なら」

 ジェームズは素早くスーツの内ポケットに手を入れ、名刺を取り出した。

「都合のよろしい時に連絡をいただければ、スケジュールは調整しますから」

 少しの間名刺を見詰め、カレンは言った。

「画商をなさってる方なんですね。優雅な雰囲気の方だと思いましたけど、芸術を扱う方ならうなずけるわ」

 カレンは自分も腰のポケットから財布を取り出し、紙袋を持った方の手で器用に名刺を抜き出してから財布を持つ手に持ち替え、ジェームズに手渡した。彼女の肩書きはジャーナリストだった。

「それでは、必ず」

 カレンはもう一度輝くような笑顔を浮かべてから元向かっていた方向に進み、ジェームズから遠ざかっていった。少しの間カレンの後ろ姿を見ていたジェームズも、すぐにまた太陽に向かって歩き始めた。

 

その時、魔法球の効果時間が切れてしまいました。未来の情景は一瞬で頭の中に浮かぶので、時間は数秒しか経っていません。

「ふむふむぅ」みるるは腕組みして考えました。

運命の出来事は分かれ道に入ってからすぐに起きるはず。この場合、若い女性との出会いがその出来事としか考えられません。みるるはこの女性が、男性の運命の人なのだと判断しました。そういえば頭の中に湧いたイメージの中の二人は、輝くような、煙るようなオーラに包まれていたような気もします。

みるるは考えながら、素早く次の行動に移りました。男性が分かれ道に差し掛かってしまう前に、次の行動に入らなければいけないからです。今度はもう一方の未来を見るために、反対の道に行くよう誘導しなければなりません。

命令の魔法球をここで使うべきか、両方の運命を確かめた後に、最後にどちらかを選ばせる時に使うべきか。みるるは少しだけ迷いましたが、何が起こるかわからないので、できるだけ魔法球は後にとっておこうと決めました。誘導するのは、一言で済むからです。

「わたしは天使ですぅ。右の道に行くと、人生を変えるような良いことがありますよぉ」

みるるは霊的な周波数を調整して、男性にだけ聞こえるよう耳元で囁きました。男性は少しだけ驚きましたが、次の瞬間に誰にともなくつぶやいたのは、みるるが予想しなかった言葉でした。

「左に行くと言っていたのではなかったかな?天使くん」

そう言いながらも男性は一応みるるの言う通り、右の道に行ってくれました。

 

みるるの頭の周りには、いくつもの?マークが浮かんでは消えました。一体どういうことなのでしょう?でも、みるるが一つの仮説を立てるのには、それほどの時間はかかりませんでした。考えられることは、一つしかなかったのです。

「天界の門」はそう簡単に使っていいものではありません。ここ最近でそれを使って人間界に来た天使や天使候補生は、限られています。けれども門は出口を人間界の好きな場所に選べるだけでなく、ある程度好きな時代を選ぶこともできるので、ずっと前やこれから先に使った者がここへやってきて、山高帽の男性に何かの「導き」をした可能性はあるわけです。だけど実際には、時代を移動するのは大きなパワーが必要になるので、余程大事な理由がないと使われません。それならば、みるるの少し前に人間界にやってきて、こんな形で導きを行う可能性が高いのは・・・。

「パメラ・・・?」

 みるるは恐らくそうに違いないと思いました。ここ一週間ほどで門を使ったのは、パメラとみるるだけのはずなのです。

その時、右の道をゆっくり進んでいた山高帽の男性に状況の変化があったので、みるるは一旦考えごとをやめました。男性は何か買い物を始めたようでした。その店は道端に建っている小さな建物で、中の女の人がガラス越しにお客さんとやりとりして、紙片の束を渡しています。看板には、「宝くじ」の文字がありました。

「天使が『良いことがある』と言うのだから、一つ買ってみようかな」男性はそれを十枚だけ買ったようでした。

そしてまっすぐ歩いて行った男性は、結局バス停でバスに乗って、その後はこれといったことが起こりませんでした。

「ふむふむぅ」

 みるるはもう一度腕組みをしてうなずきました。この場合、宝くじが当たって大金持ちになることが運命の出来事としか考えられません。そういえば、彼が手にした宝くじは、光り輝いていたような気もします。みるるは大事なことが輝いて見える類の予知能力が苦手でした。さっきのもこれも、もしかしたら勘違いかもしれないとは思いましたが、いろいろと考えてみてもこの場合は間違いないと心に決めました。そう、それはほとんど、決心に近いものでした。

 これで二つの運命は出揃いました。

一つは、運命の恋人に出会う運命。一つは、大金持ちになる運命。

みるるは過去に戻る魔法と、命令の魔法を残しています。後は二つの運命から一つを選んで、分かれ道に差し掛かるところまで時間を戻して、みるるが選んだ道に進むよう命令するだけ。これが彼女の思いついた方法なのでした。

〈魔法球の選び方、その使い方。見事だ、みるる君〉

 先生の喜ぶ声が届きます。みるるは得意気に人差し指で鼻をこすり、満面の笑みを浮かべました。でも、すぐに笑っていられる状況ではないことに気がつきました。

「いったい、どっちが正しい道なのかなぁ?」

 見てしまえばすぐにわかると高をくくっていたみるるは、頭を抱えてしまいました。でもここは、精一杯整理して考えるしかありません。例によってみるるは、肝を据えて顔を上げました。

単純に考えると、お金よりも愛の方が大切ということになるかもしれません。でも、現実にはそう簡単ではないことぐらいみるるも知っていました。最初はどんなに熱く愛し合っていても、だんだんと女性との考え方の違いがわかってきて、わかった時には結婚した後で人生が狂って台無しになる男性もいます。だからと言ってお金の方も、多くを手に入れた人が必ず幸せになるとは限りません。事業に手を出して失敗し、借金を作って何もなかった頃よりひどくなる人もいます。多くを持ちすぎて何事にもやる気をなくして引きこもってしまい、人生の楽しみを失う場合もあるでしょう。

「学校の勉強って、肝心な時には役に立たないなぁ」

 みるるは学校で善悪とか正義とか道徳についても勉強していましたが、実践にはあまり役に立たないことを改めて実感しました。その分野は授業時間も極端に少なかったし、何より内容が抽象的でした。それは「こういう時はこうしたらいい」とか、「これとこれはこちらが正しい」とはっきり言わなくて、「こういうことがありました。皆さんはどう思いますか?」と投げかけて、みんなで話し合うようなものばかりだったような気がします。大概は話もまとまらず、なんだかよくわからないまま終わることが多かったのをみるるは思い出しました。《もしかすると・・・》先生も答えがわからないのかも。みるるはその点については、なんだかちょっと納得したように感じました。

 でも、それならどうして一番大切な試験でこんな判断をさせるのでしょう?こんなことなら、そういう授業をもっと大切にするべきなのに。「アストラルボディは理念的には物質に相当するものであり、オーラは根元部分から発される波動でありエネルギーである点で違う」なんてことは少しも役に立たないじゃない。みるるは少し腹立たしく思いました。

 その時ふと、みるるは大事なことを思い出しました。

この出題には、パメラが絡んでいるようなのです。

状況からして彼女はきっとこの山高帽の男性を導いて、あの若い女性に引き合わせようとしたのに違いありません。男性は「左の道に行くように言われた」とも言っていましたし、「良いことがある」とも言っていましたから。もし彼女の導きが正しいのならば、みるるが右の道を選んだ場合、パメラは堕天してしまうということなのでしょうか?みるるは怖くなりました。男性の人生のみならず、彼女はパメラの運命も握っている・・・。

こんなことがあってもいいのでしょうか?二人の生徒の天使昇格試験が干渉して、互いに影響を及ぼすなんてことが。そもそもパメラは、何と比べてこの道を選んだのでしょう。あるいは彼女の受けている試験は、このような二者択一ではないのかもしれません。いずれにしろ、みるるは強く疑問を感じました。これは何かの間違いではないのでしょうか?

〈先生、こんなことってあるんですかぁ?〉

でもなぜか、みるるの質問に答える声はありませんでした。先生が何かの用事で席を外したのか、それともこのような苦しい選択が試験の本当の意味なのか・・・。みるるは迷いました。

《互いに影響を及ぼす・・》みるるは整理しました。もしも正しい選択が大金持ちの方だったら、パメラの選択を尊重して運命の恋人の方を選んだりすれば、逆にみるるが地獄に堕ちることになってしまいます。この場合は、パメラが正解でみるるが失敗。その逆がパメラが失敗でみるるが正解になるケース。二人とも正解になるケースもあるかもしれませんが、逆に二人ともが失敗になってしまうケースもあるでしょう。全部で4通りあるはずなのです。

時間を戻る魔法には能力の限界があることがみるるの頭を過ぎりました。それを超えれば、分かれ道の手前までは戻れなくなってしまいます。そしてその時は、刻一刻と近づいていました。さすがのみるるも、だんだんと慌てふためいてきました。

みるるはプレッシャーで潰れそうになる思考を懸命に建て直し、冷静になろうと努めました。

《二つに一つなんだからぁ》

パメラの存在を絡めるとなんだかややこしくなりますが、結局は二つの道から一つを選ぶだけなのです。まったく、彼女も余計なところで出てきてくれたものだとみるるは思いました。

「あッ」

そう考えた時、みるるは突然気がつきました。パメラが試験一番乗りを決めた時、渦巻いていたもう一つの感情に。複雑だからわからないと自分に言い聞かせていた、本当は一番大きかったその感情の正体に。

嫉妬

グループのリーダーだった自分を差し置いて、一番乗りしたパメラ。なぜ自分が一番ではないのか。彼女のどこが自分より勝っていたのか。そして一番仲の良かった彼女に対する、このどす黒い感情はどうして生まれるのか   。

全てをリセットして楽しかった元の状態に戻るには、ここで勝利を収めるしかない。なぜだかわかりませんが、みるるはそんな気がしていました。彼女と同じ選択をしても、それはやっぱり彼女の勝ち。彼女の方が順番的に先だからです。それなら、パメラとは違う道を選んで、みるるだけが正解しなければいけない。

でもその一方では、そんな考えを必死に抑えつけようとするみるるがいました。

ここは純粋に二つの運命の内容を検討して、どちらが望ましいか決めなければいけない。パメラの選択や彼女との感情的な絡みを持ち込むなんて、フェアじゃない。でも一体どちらが正しいのだろう?お金より大事なものがあるのも真実だし、愛情だけでは必ずしも幸せになれないこともまた真実。

情報が少なすぎました。もっと未来を。それぞれの運命がその後、どういう結末を迎えるのかを見たい。

その時、微かに、ほんとうに微かに、みるるは誰かの優しげな低い声が聞こえたような気がしました。それはお腹に響くような低い声だったような気がします。そして微かではありましたが、みるるはその内容をしっかりと聞き取りました。

〈あの若い女性は浮気性で、ロクな女じゃないよ〉

 みるるの中にあった天秤が、ゆっくりと一方に傾きました。

時間が来ました。みるるは素早く魔法球を地面に投げつけました。

「時間よ、戻れぇ!」

風景の全てがビデオを巻き戻したように激しく逆に動いて、止まり、そして再び動き出します。それは、山高帽の男性が分かれ道にまさしく差し掛かるところでした。本当にぎりぎりだったのです。

みるるは続けざまに最後の魔法球を取り、男性に投げました。

「これはパメラとは関係無い。みるるが考えて決めたことだよぅ」

魔法球が男性の背中に当たって弾け、煙になった瞬間、みるるは力一杯叫びました。

「右の道に行きなさいぃ!」

ところが   

なんということでしょう。男性はためらいなく、左の進路を取ったのです。

一瞬真っ白になって止まってしまったみるるは次の瞬間、舌を出して頭をかきました。そして、自分が本当におっちょこちょいであることを改めて認めました。この肝心なタイミングでそれが発揮されたことに、ユーモアさえ感じました。

「間違えちゃったぁ。命令する魔法じゃなくて、あまのじゃくになる魔法を持ってきちゃったぁ」

それは一度だけ、言われた事の反対の行動を取らせる魔法でした。男性は右に行けと言われたから、左に行ってしまったのです。そしてそれは命令と同じ効果があるので、もうみるるが呼び戻しても無駄なのでした。どうやらみるるは、ずっと前に魔法球をたくさん買って分別した時に、シールを貼り間違えていたようなのです。

取り返しのつかない失敗をした割には、みるるの顔には笑みがこぼれていました。思わず笑っちゃうような間違いだったので・・・。

 

 4

「待って」パメラエルが息を切らしながら、後ろから声をかけました。

「もう、パメラエルは遅いんだから」

言いながらも、前を行く彼女はスピードを落として振り返り、パメラエルを待ちました。

「だって、ミルエル早いんだもん」

前を行くのは、天使に昇格して「ミルエル」になったみるるでした。その頭の上には、輪っかが穏やかな光を放っています。二人は天使の仕事をするために、人間界を飛んでいるのでした。

結局あの試験が彼女の何をどうやって試すものだったのか、ミルエルにははっきりとはわかりません。やっぱり、わざとパメラの選択と絡ませることによってその反応を見ることが目的だったのかもしれません。それとあの時囁いた声の主が誰だったのかも、わからずじまいでした。その声が言っていたことが、本当だったのかどうかも。人間が修行して天使になる時に、悪魔が誘惑したという話しをミルエルはいくつか知っていましたが、もしかするとその類だったのでしょうか。ただ確実に言えるのは、運命の恋人、すなわち「愛」が正解だったということ。そして最後に目的と異なる魔法球を使ってしまうというタイムリーなミスのため、結果的には彼女は正解になったということ。

こうして天使として認められて、天使の仕事についているということは、心の中の動きまでを試験していたのではないのでしょう。学校はあくまでも、結果だけを判断したのに違いないとミルエルは確信していました。そしてそんな試験のやり方も学校の勉強の仕方も、本当は大して意味があるものではないということも。それどころかもしかすると、他にもミルエルと同じような天使がいっぱい隠れているのではないでしょうか。学校や天使の社会が試験の結果しか見ずに、天界から追放するかしないかを決めているのだとしたら・・・・・・。

いずれにしても、運が良かったのだとミルエルは思いました。

「あれ?」不意に止まって、パメラエルが両手で目をこすっています。

「どうしたの?」とミルエルは言いました。

パメラエルはミルエルをじっと見て、首をかしげました。

「おかしいな。今、ミルエルの翼と尻尾が黒く見えたんだけど・・・」

ミルエルはじっとパメラエルを見ていましたが、やがてころころと笑いました。

「何言ってるのよ、パメラエル。それじゃまるっきり、堕天使じゃない」

パメラエルは二,三度目をしばたかせてから、同じように笑い始めました。

「そうよね。あり得ないよね。試験に合格したんだから」

二人は再び目的地への飛行を開始しました。

あれ以来ミルエルは変身の魔法を維持させるため、集中力が途切れないように気を遣っています。翼と尻尾の外観を天使らしくカモフラージュしないといけないので。

それほど大した仕事じゃ、ありませんけどね。

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